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輝く女性事例

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「歩んだ軌跡は私の財産。
等身大で私らしい管理職として輝きたい」

医療法人ハートフル

  • 医療・福祉
  • 廿日市市
  • 301以上
所在地 広島県廿日市市陽光台5丁目9番地
URL http://amano-reha.com/
所属・役職 障がい者支援部 部長
ご本人氏名 立花 英美 さん

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1978年~ 大学卒業後、航空会社に入社。飛行機を利用するお客様への対応業務に従事。結婚を機に退職し、専業主婦となる。

1987年~ 地元である広島県廿日市市で再就職。小学校教諭として学級担任を任される。

1998年~ 廿日市市教育委員会で指導主事となる。

2006年~ 廿日市市産業観光部(当時)商工観光課(※)へ異動。課長として廿日市市の商工業や観光の振興を担う。

2011年~ 廿日市市福祉保健部障害福祉課へ異動。障害者手帳の交付や福祉サービスの提供等を通して障害児・者の自立支援に努める。

2013年~ 医療法人ハートフルへ転職。障がい者支援部部長として、日々、障害児・障害者支援の事業の立案と運営を行う。

※ 平成20年4月の組織改編により、環境産業部に名称変更

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悲しみにくれる間もなく猛勉強、専業主婦から一転小学校教諭へ

医療法人ハートフルで障がい者支援部部長として活躍中の立花さんは、航空会社、専業主婦、小学校教諭、市の行政職員といった様々な経歴を経てきた。結婚を機に退職し、2人の子育てをしながら専業主婦として過ごしていた立花さんが、小学校教諭となったのには理由があった。第一子が4歳、第二子が1歳の時に人生の伴侶である夫が急死したのだ。あまりにも突然の訃報に、立花さんには悲しむ余裕がなかったという。

両親を頼り、子供を引き連れて地元の広島県へと帰郷。「まだ若いし、このままではいけない」と考えた立花さんは、子育てをしながらできる仕事を模索し、考えた末、教師をしていた友人からの助言を受けて教職という選択肢をとった。

立花さんは大学で中学校と高等学校の英語の教員免許を取得していたが、教科の限定される中学・高校教諭はどうしても赴任、異動の範囲が広くなり、まだ幼い子供の子育てとの両立が難しいと考え、小学校教諭の道を目指すことに決めたという。

人生の転機から3カ月後には、通信教育で小学校教諭の資格取得の勉強を開始。「とにかく勉強漬けの日々!怒涛の1年で、悲しむ暇なんてありませんでした」と言えるほど没頭したといい、勉強を始めた3カ月後には教員免許取得見込み扱いで教員採用試験の1次試験を受験し、合格。京都市内の大学で行われる2週間の集合研修にも子供を両親に預けて参加し、自分より若い同級生に囲まれながら体育・音楽・図工といった講義を受けたそうで「水泳の授業が一番きつかった」と笑いながら当時を振り返る。その後、見事に小学校教諭の免許を取得し、翌春から晴れて小学校教諭として実家に近い小学校で勤めることとなった。

小学校教諭から市の観光課に異動になり、忙しくも充実した日々

小学校教諭としての勤務では、前職で培った「お客様対応能力」を生かし、目の前に見えるものだけでなく、その人が抱える問題などを踏まえて接することを心掛けた。

新任時は地域に根差した伝統ある小学校に配属され、2校目は新興住宅地にできた新しい小学校に配属された。特色が異なる2校に勤めたことで、地域によって考え方、文化や習慣が異なることを実感したという。さらに自分の子供と同年代の子供たちを預かり、教鞭をとるなかで、親が子を思う気持ちの強さや、子供の成長を温かく見守る教員たちの愛情に触れ、「人を育てる」仕事の尊さを感じたそうだ。

その後、廿日市市教育委員会で市内公立小中学校の管理や指導助言を行う指導主事に就任。これは、学校教員の人事管理や個別の学校訪問を行いつつ、文部科学省が示す方針や教育内容を具体的に各学校に指導助言する仕事だ。

当時の廿日市市長が英語教育を重視していたこともあり、広島県内でいち早く各小学校にALT(外国語授業を補助する外国人指導助手)を配置し、英語教育に取り組むこととなった。通常業務に加えて、いろいろな国から来たALTたちの生活をサポートするために奔走し、多忙を極めた。このような経験の中で個人の持つ能力には限界があることを痛感。それと同時に、誠意ある対応や今の自分ができることを精一杯真摯に行うことで、他者が自分を受け入れてくれることに気が付いたという。

廿日市市教育委員会の学校教育課長まで昇進していた立花さんであったが、平成18年、廿日市市産業観光部(当時)商工観光課に課長として異動となった。平成17年に廿日市市と旧佐伯郡大野町と宮島町が合併したため、配属された課も混沌とした状況であったそうだ。毎日が暗中模索で、さらに当時は女性管理職が少ないこともあり、様々な面で苦労したという。

立花さんとしては思いもよらない部署での管理職ではあったが、「なってしまったからには責任を果たさねば」と目の前にあることに誠実に向き合うことから始め、地元の事業者の方々とも次第に打ち解けていった。今でも相談に乗ってもらえる仲といい、貴重な財産だと話す。

その後、組織改編に伴い、新設の観光課に異動になってからは、インターネットを用いて国内外へ廿日市市の観光情報を発信したり、廿日市市の観光課長として人気テレビ番組へ出演したり、またフランスのモン・サン=ミッシェルと廿日市市が観光友好都市提携を結んだりと、忙しくも充実した日々を過ごした。

平成23年には、廿日市市福祉保健部障害福祉課へ異動となり、担当課長として市の現状を理解するとともに、その現状に即した障害福祉施策の推進に努めた。生活のしづらさに苦しむ障害者と直接対話を行うなかで、「住み慣れた地域で自分らしく幸せに生きていきたい」という強い思いはすべての人に通ずる原点だと改めて感じたという。自立支援における行政の在り方や役割の大きさを実感することとなった。

そんな中、医療法人ハートフルから「障害児・障害者支援の事業を拡充したいので、力を貸してほしい」と声が掛かった。

自身の経験も踏まえ、悔いのない働き方が叶えられる環境づくりへ

「私、切り替えが早いんです」と立花さんは自身の長所を説明するが、様々な場所で多くのピンチを経験し、乗り越えたこと、そして様々な仕事を通して多様な職業、年齢、性別、価値観を持つ人々と出会えた経験が今の立花さんを形作っているように思う。

「年の功でしょうか。窮地を脱する方法も色々なことが思い浮かび、我ながら感心することがあります」と多様な経験を積んだ立花さんだからこそ、枠にとらわれない発想と心の強さ、コミュニケーション能力を武器に問題に向き合っている。

type3_heartful_2_2.jpgそんな立花さんが後進にぜひ伝えたいこと、それは、「子育ての期間は長いようで、一瞬。参観日、運動会、入学卒業式といった行事は子供のためだけでなく、親である自分のためにもぜひ参加してほしいです」と話す。

立花さんは小学校の担任を務めていた時、自分の子供より担任しているクラスの子供を優先し、自分の子供の授業参観や学級懇談会などの学校行事に参加することを躊躇していたそうだ。20年余りが経過した今でもそのことを後悔しているといい、多様な人生観の中で結婚や出産、子育てと仕事との両立を選択した女性は、その人生を後悔してほしくない、と常々願っている。


現在、立花さんはハートフルにおいて部長という管理職の立場で、職場環境づくりに力を入れ、女性がそれぞれ無理なく個々の持てる能力を最大限に発揮できる環境を整えようとしている(ハートフル企業記事へはこちらから)。

「様々な背景を持った人がいる、それぞれが異なった個性を有している、したくてもできないこと、なりたくてもなることができないものがある。無理をしすぎても仕方がない。等身大の自分で、できる最大限の努力をし、最低限の条件である『どんな時にも最終的には自分が責任を持つ』『部下をはじめとした周囲の人には誠意をもって接する』ことを忘れず、自然体で目の前にあることに誠実に向き合い、コツコツと実績を積み上げていけば自分自身の充足感も得られるはず。後で後悔するような働き方はしないことが大事。金子みすゞさんの詩と同じ、管理職だって『みんな違って、みんないい』じゃないですか」と立花さんはニコリと笑って話してくれた。