もちーと ひろしま
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輝く女性事例

「夢を叶えた先でいくつもの壁を乗り越え、分かってきた楽しさ」

広島テレビ放送株式会社

  • その他産業
  • 広島市
  • 101〜300
社名 広島テレビ放送株式会社
所在地 広島市東区二葉の里3-5-4
URL http://www.htv.jp
所属・役職 経営・総務本部 経営戦略局 経営企画部長
ご本人氏名 川上陽子 さん

(2019年12月現在)

「テレビ派」や、25年以上続く老舗スポーツ番組「進め!スポーツ元気丸」など、数多くの人気番組をもち、広島の”今”を伝えている広島テレビ放送株式会社(以下、広島テレビ)。2011年3月から、仕事と子育ての両立を図るための取組を具体的に定めた「一般事業主行動計画」を策定し、2014年には、第1回目標を達成。同年には、厚生労働大臣の認定マークである「くるみんマーク」(※)を、中四国・九州地区の放送局で初めて取得した。その後も、継続的に取組を続けており、従業員がやりがいを持って仕事と子育てなどを両立できる環境整備に尽力している。また、「広テレ!子育て応援団」というサイトを運営し、子育てに関するさまざまな情報提供や、イベントなども行い、女性の活躍や両立に関するメッセージを、広く社会に発信している。
今回取材させていただいたのは、入社以来、報道畑を歩み、現在は経営戦略局経営企画部で部長を務める川上陽子さんだ。

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1996年 入社後、市政担当記者として報道部に配属。のちに、情報部へ異動し、情報ワイド番組のディレクターとなる。再び報道部で記者、デスクを担当。キー局である日本テレビ報道局への出向も経験。

2004年 自ら異動を希望し、営業局業務部へ配属。

2006年 再び報道部へ戻り、デスクとなる。記者を取りまとめる業務の傍ら、自らも記者として現場へ出向く。

2016年 東京支社へ異動し、営業局営業部、編成局東京コンテンツ推進部を経験。2019年、東京コンテンツ推進部長となる。

2019年 経営戦略局経営企画部へ部長として着任。株主総会や取締役会など、経営に関わる業務責任者としての役割だけでなく、新規ビジネス開発に当たる。

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夢に近づくために1歩1歩着実に前へ

川上さんが、報道記者を志した最初のきっかけは、中学生時代にさかのぼる。1980年代後半、当時、貿易摩擦問題で日米が対立。「ジャパン・バッシング(日本叩き)」という言葉が流行語になるなど、アメリカ人の日本に対する感情が悪化していた頃、川上さんが何気なく見ていたテレビ番組で、ニューヨークでの街頭にて「日本についての印象」を尋ねるインタビューが流れた。そこで出てきた答えや意見に対し、「私が見ている日本と、海外に伝わっている日本の姿が少し違うのでは?」と違和感を抱いたそうだ。このとき、事実をフラットな視点で、正確に伝えることが必要なのではないかと感じた。そして、漠然とではあったが、「将来、自身の考えを表現できるような仕事に就きたい」と思ったそうだ。

高校時代は、自分の将来について、真剣に考える仲間が周りに多くいたおかげで、良い刺激をもらったという。一方で、友人たちが夢に向かって突き進んでいるのに、川上さん自身は、具体的な目標が見つけられずにいたそうだ。そんな中で、昔ぼんやりと思い描いていた「表現する仕事」を真剣に考えるようになる。大学は、当時マスコミへの就職率が良いと評判だった大学を受験し、見事合格。大学在学中の4年間は、東京にあるテレビ局で、報道記者補助のアルバイトに励んだ。

就職活動では、「採用面接で、『どうしてこの会社を選び、何がしたいのか』を説明できなければ説得力を持たないと考えていました。そういう意味で、大学時代を過ごした東京と、地元である広島のテレビ局に絞って、就職活動を行いました」と話してくれたが、就職氷河期といわれた頃にもかかわらず、希望通り広島テレビに入社し、報道記者としてのキャリアをスタートさせた。

「いつまでたっても100点が取れない」 だからこそ、面白い仕事

配属された報道部では、2年間記者として現場経験を積み、その後、情報部へ異動。夕方の情報番組のディレクターを務めた。「もともと報道志望だったので、情報部への異動は大変ショックでした。ですが、実際に携わってみると、報道とは違う演出方法や、生放送の緊迫感など、全く違う面白さがありました。取材にしろ、制作にしろ、基本作業は同じで、出会う人やできごとによって難易度はジェットコースターのように変わる。いつまでたっても100点満点が取れないことが、この仕事の魅力だと感じています」。

DSCF2607.jpg取材を通じて、さまざまな人との出会いがあり、画面越しでは見ることのできない数々の「現場」を経験してきた川上さんだが、中でも特に印象に残っているインタビューがあるそう。

「平和記念公園に立つ『原爆の子の像』のモデルとなった佐々木禎子さんのお父様にインタビューさせていただく機会がありました。禎子さんは2歳のときに被爆し、12歳で白血病を発症し、発症から1年もたたないうちに亡くなりました。『折り鶴を千羽折れば元気になる』という言い伝えを信じ、鶴を折り続けたというお話はとても有名で、広島のみならず、世界平和のシンボルでもあります。しかし、お父様はとても複雑な気持ちを抱えていらっしゃることが取材で分かりました。幼くして、原爆が原因で亡くなったのは、わが娘だけではない。それぞれの家庭に、それぞれの悲しみや怒りがある。その中で、娘だけが、あがめたてられることが辛くもあったとおっしゃって涙を流されました」。

記者として、中立で、冷静な立場でいなければいけないと頭では理解していながら、そのときばかりは、感情が溢れ出てしまい、涙を流したという。

立ち止まったり、走ったりしながら見えてきた景色

入社して8年ほどたった頃、自ら報道以外の部署への異動を希望し、営業部へ配属される。「8年間、必死に夢中で駆け抜けてきたこともあり、一息つきたくなったのかもしれません」と、当時を振り返る。
2年弱、報道の現場から離れたおかげで、「やっぱり、記者として現場に出向き、表現したい」と再認識することができたそう。そして再び報道部に戻り、デスクとして、記者全体を束ねる傍ら、自らも記者として現場に出向き、プレイングマネジャーとして、二足の草鞋を履くこととなる。デスクになってからは、指示を受ける側から出す側へと役割が変わったが、部員と思うように意思疎通ができないもどかしさを感じることもありながらも、自身の考えを理解してもらったうえで部員に動いてもらえたときには喜びを感じ、管理職に向けた成長を感じることもできたそうだ。

2016年には、広島テレビ東京支社へ異動し、営業部、東京コンテンツ推進部で経験を積んだ。「まるで転職したような感覚でした。以前、営業部門は経験したことはありましたが、本格的に担当することになり、さらに東京コンテンツ推進部での業務も経験しました。キー局との連携や交渉、番組販売などを担当し、状況が目まぐるしく変わる中に身を置いたことで、臨機応変に対応できる精神的な強さが身に付きました」。
幅広い業務を積みつつあった入社24年目となる2019年に、東京コンテンツ推進部長に昇進し、管理職となった。

「どうせやるなら楽しく」の気持ちで後進に背中を見せ

2019年からは、広島に戻って経営戦略局経営企画部長となる。「現業に就いてまだ2カ月ですが、最大のミッションである新規ビジネスの開発を含め、テレビの未来をいい方向に導く一助になれたらと考えています」。

最後に、後進へのメッセージについて尋ねると、「どうせ働くなら楽しく働きたいと思っています。当社は、仕事をする上で性別差を感じることはなく、フラットな雰囲気ですが、女性管理職が男性に比べて少ないのは事実です。私自身、ポストを与えていただいた以上楽しくその職を全うしたい。管理職である私自身が楽しく働いていなければ、管理職を目指す人も増えないと思っています」と語ってくれた。

幼い頃に思い描いていた夢を叶え、そこでさまざまな経験を積み、テレビの“これから”を考えている川上さん。夢に一直線で、今も走り続けている川上さんの笑顔は本当に輝いていた。

※くるみんマーク
次世代育成支援対策推進法に基づき、一般事業主行動計画を策定した企業のうち、計画に定めた目標を達成し、一定の基準を満たした企業は、申請を行うことによって「子育てサポート企業」として、厚生労働大臣の認定(くるみん認定)を受けることができる。